体験談

体験談 No.1 大阪府 今井様

2011年8月、まさかの肺がん宣告。がんとの壮絶な戦いが始まる。

がん宣告を受ける数年前から変調は感じていた。春先になると発熱が無くても咳がでる。
ただその時は季節の変わり目だろうと高をくくっていた。実際、数週間もすれば咳は静まり、その後の変調は無かった。
しかし2011年の春先は例年とは違い、脇腹を痛めるほど咳は酷かった。

診断はステージ3b リンパ節に転移が有り手術不可。
39歳という若さゆえに、積極的な治療が必要な為、1か月の入院期間で1日午前9時と午後16時に2回放射線を行い、同時に抗がん剤治療も併用。
当初は順調かと思っていたが、副作用や後遺症の影響が少しずつ体をむしばんできた。

入院して2~3週間を過ぎた頃から食道のあたりに痛みが走りだし食事が取れなくなる。
放射線の後遺症だ。
3bという事で、胸部の大部分を照射しているため、食道に炎症を起こし、唾さえも飲み込むのに痛みを感じ始めた為、ベッドの上では常に唾を吐き片時も洗面器を離せない状態になった。

今まで気丈に振舞っていた妻が泣き崩れる。水分が取れなくなった為、鼻からチューブを挿入し、点滴を付けている自分の姿に、現実が襲いかかってきたからだ。

当時、6年生の息子と幼稚園の娘がいたが子供だけにはこの姿を見せることは出来ない。
いつも元気で明るいママのこの姿を。
そんな妻にとって気になるのは子供の成長。幼い娘が気になるし、息子の野球の応援に行ってやれない不甲斐なさを感じるが、どうすることも出来ない。

妻の精神的負担を少しでも軽減させるのに、子供達は妻の実家に預けていた為、私が病院を起点に営業へ行き、終われば病院に戻り妻の病室で寝泊まり。朝の6時に実家へ顔を出し、娘の幼稚園の話を聞くことと、息子とは朝練をするという生活を1カ月過ごした。

その後、退院を迎えるが、相変わらず食道の炎症は治まらない。自宅では深夜、妻のうめき声で私は目が覚める。横で寝ている何も知らない娘を起こすまいと、薄暗い部屋のベッドの片隅で胸を押さえて1人で痛みを我慢している。さすってあげても痛みは取れないし、私の出来る事は何もない。ただ、苦しむ姿を見守るしか私には出来ませんでした。

その後、食道の痛みは徐々に引いてきたが、しかし次の問題は食道が縮み食事が取りにくくなる。
それと抗がん剤の副作用で体の全てに皮疹が出始める。
就寝前には体の全てに保湿クリームを塗る。
顔面の皮疹は女性に取って致命的だ。顔を洗う時にも痛みを感じた。
放射線の後遺症と抗がん剤の副作用は一時的ではあったが、その間の2人の苦しみは想像を越えるものがあった。

妻は1人で私の想像を遥かに超えた世界で戦っていた。
誰も助けてくれないし、おそらく孤独感から一度も解放はされることはなかっただろう。
妻の精神状態はボロボロであった。ここでは書ききれないほどの事があった。

妻の気持ちがわかってくれる人がいるなら、それはがん患者の方だけだ。
毎日私は無力感だけが残る。どれだけ傍にいてあげても、私は妻の本当の気持ちがわからない。毎日、毎日、毎日が辛かった。妻の気持ちがわからない…。
横で寝ている妻の顔をみるのが辛かった。妻は目が覚めると、現実が待っており、また辛い時間を過ごし、そしてボロボロの精神状態のまま就寝を迎える。

そして2013年9月、予想をしなかった事態が妻の体に起こる。

背骨への骨転移が原因で下半身不随に陥る。

2度目の入院。もう子供には隠せないと思い、息子には妻の病名について初めて話をする。それを聞いた息子は何も語らず、ただただ涙を流していた。娘には話せなかった。
『ママは咳がまだ治ってないから再入院するんだよ』

一部の腫瘍を手術で取り除き、術後は放射線治療。あの後遺症の恐ろしさが蘇る。

車いす生活が始まる為、リハビリの先生に自宅の見取り図をみてもらい、いろいろな問題点に対してアドバイスを頂き、準備をしたつもりだったが、現実は勝手が違った。

先ずは、24時間、誰かがいなければ、緊急対応が出来ない。脊髄に放射線を照射した為、後遺症で腹筋、背筋に力が入らず、どこかを掴んでいなければ座る事さえ出来ない。

当初は神経が麻痺しているだけで、時間が経つと麻痺は引いてくると聞いていたが、まったくは回復せず。『腹部にさらしをきつく巻かれている感じで締め付けが苦しい』と妻は語っていた。再度、後遺症との戦いが始まった。
だが私はその言葉に少し安堵感を覚えた。なぜなら、妻の気持ちが初めて理解できたからである。46時中さらしをまかれたら、私でさえ、たまったものではない。
今思えば、その言葉で初めて妻を少し理解できたと思えたが、それぐらい今まで、妻の辛さや精神状態を理解することが困難だった。

リビングに介護ベッドを置いての生活が始まったが、早々に問題点が浮き彫りにされる。
入院中は看護師さんがいとも簡単に身の回りの作業をこなしてくれるので、ある程度出来ると思っていたが、事は簡単にはすまされない。
まずはトイレの問題である。
下半身の感覚をほとんど失っている為、排出するタイミングが上手く伝えきれない。
そして極力、ポータブルトイレではなく自宅のトイレでさせてあげたかったので、トイレのドアを外し車いすでも対応できるようにしたが、やはり狭い。

おしめを外す事に時間を取られ、車いすから便座に移乗するのに時間を取られ、さらしを巻いた感じの状態の妻を痛み無しに動かすことは容易ではない。
トイレに行くことがストレスになる。
よってポータブルトイレに変えたが、あまりにもつらい出来事が多すぎてここでは詳細を伝えきれない。

想像してみてくだい。40歳の女性が一切何も一人では出来ず、夫に全ての身の回りの事を委ねる妻の精神状態を。
しかし私は妻の介護を出来る喜びを感じていましたし、『俺が治してやる』とも思っていました。
ただ、女性としてプライドをもっている、妻が抱えていたストレスとは一体、どんなものだったのでしょうか?

ここで介護状態により、どのような生活を送ったかを列挙致します。

  1. ① 同じ態勢で寝ると臀部に床ずれが生じるので、夜中も数時間おきに態勢を変える必要がある。よって妻はそのたびに私を申し訳なさそうに起こす。
  2. ② 仮眠を取る時も、居心地の良い態勢を作る必要がある為、人の介助が必要。
  3. ③ トイレに行きたくても、一人でベッッドから車イスに移乗が出来ない為、介助が必要
  4. ④ 私がおしめを履かす時に、妻は自分の全体重を細い腕でささえなければならない。
  5. ⑤ お風呂は湯船につかれないのでシャワーしか出来ない。
  6. ⑥ 排出は有ればいいが、無ければお腹がはり、締め付けの苦しさが倍増する。
  7. ⑦ 私にも疲労が徐々に感じられ、辛い言葉を妻に言ってしまう。
  8. ⑧ 友人が訪問してくれるが、帰ると必ず涙がでて落ち込む。
  9. ⑨ 死の恐怖と将来の絶望感から精神状態が不安定になり、極度の引きつけを起こし救急車を呼ぶ。

辛い事は沢山ありましたが、今でも退院させて自宅療養に変更したことは間違いではなかったと確信しています。妻の居場所はこの家なので…。

その様な状態でもよく2人で多賀神社(彦根)にお参りをしました。命の神様だと聞き、わらをもつかむ思いで高速を走り、道中は子供の話や息子の野球の話、と2人の特別な時間を過ごせましたし、多賀神社に行けば力をもらえたので、妻もそれを望んでいました。

自宅での訪問看護スタッフには恵まれ、癌の恐怖を忘れさせてくれるぐらい皆さんパワフルでかつ繊細な為、私たち夫婦にとってオアシスの様な存在でした。
介護ヘルパーさんはほとんど家族みたいな存在でプライベートな話も出来、本当は駄目なのですが、娘の食事や世話も一緒にみてもらい妻にとってかけがえのない存在でした。

友人の存在も、もちろん大きかったです。
常時、10人前後の友人が顔をだしてくれていましたし、その他にも野球チームのママ友達、近所のママ友達や、学生時代の友人、社会人時代の同僚が力を貸してくださり、全ての方々が妻の完治を信じてくれていました。

だが平成25年12月、治療方法に大きな変化が訪れる。
当時、投薬していた抗がん剤の効果が無いことがわかり、別の効果が不明な抗がん剤に変更するか 、緩和ケアへの方向転換への決断です。
迷わず、緩和ケアへの選択を選びました。緩和ケアとは一切治療はせず、痛みを少しでも取り、日常生活に近づけることを目標とすることです。
よって、これで今後は病院での検査は行わず、ただ現状の報告のみをするという通院に変わりました。

私は、望むところでした。抗がん剤をこの機会にやめ、新たな治療を出来ると思い独自で丸山ワクチンを探しだしました。

ただ大きな問題が発生しました。丸山ワクチンを接種してもらえる医療機関が近くに無いことです。
接種には週3回、必ず通院が必要だが妻は運転が出来ない(下半身不随の為)よって私が仕事をしながら、週3回の通院と妻の介護と家事を行うには時間が足らない為遠方の病院は考えられませんでした。
近くの病院で過去に接種実績のある病院を探しだし電話をかけるも、現在はどこも行っておらず、悲壮感と恐怖心が襲って来ました。
そしてリストの最後の病院には医院長に直談判を行う為、診察前に訪問しましたがここが駄目なら先が見えない。祈る気持ちで妻の状況を説明しました。

結果は駄目であった。

しかし思いが通じたのか、最近まで行っていたと噂がある病院を教えてもらい、その足で向かった。

自宅から近く条件はいい。最後は土下座の覚悟をしていました。
思いは通じて、現在は行っていないが接種を承諾。
翌日に東京の病院へ主治医のサイン入りの書類をもっていき、直ぐワクチンを入手し早速接種を開始。
主治医は行動の早さに驚いていたが、それぐらい、私には余裕が有りませんでした。

同時に京都に肺ガンの名医が居ると聞き、週3回のワクチンと京都の病院への通院、自宅での介護、家事、そして私の仕事とめまぐるしい時間を過ごしましたが、疲れは全くなかった。今になって思えば14年間の夫婦の時間の中で一番楽しく、充実したすばらしい時間でした。

ただ病の進行は想像以上に早かった。

平成26年2月、肺機能が低下しはじめ、酸素マスクが必要となる。
状況はかなり厳しくなるが、妻は諦めていない。
幼い子供がいる。息子の甲子園の夢を一緒に追いかけたいし、娘が大きくなったら一緒に買い物にいく夢もある。こんなところで足踏みなどはしてられない。

だが時間が経つにつれ、酸素マスクの分量が増え、外出ができなくなる。
丸山ワクチンという、唯一の治療ができない。
外出が出来ないなら先生に唯一の治療である丸山ワクチンの接種の為に、往診をしてもらうしかなく、相談すると快く承諾してくれた。
命の恩人だ。医院の診療後、自宅に来てくれた。

しかし、既に片方の肺は機能しておらず、主治医から厳しい言葉を聞くことになる。
妻からは先生が帰ると『何か言ってた?』と聞かれてもごまかすしかない。
その後、徐々に容体は悪化し、苦しむ回数と看護師さんを呼ぶ回数が増えてくる。

『もしかして』という言葉が頭をよぎる。

私は妻の前では一度も涙することは無かった。私は常に妻の前では強くなくてはならない。
妻が表立って大声で泣きたいだろうと思った時は、妻が一番信頼している先輩に来てもらう。
先輩の幼稚園児をあやすような言葉使いに妻は号泣し、先輩も一緒に泣いてくれる。

だがついに妻の前で私は号泣することになる。

『後は頼むね』と言葉をかけられる。

本人はまだ呼吸もしているし、言葉もしゃべれる。目も見える。ただ母親の最後の役目を感じたのだろう。後を私に託した。

私は今まで我慢していた、感情の全てを涙に変え号泣してしまった。
そして妻の覚悟をくみ取り、今度は私が2人の子供を持つ父親として残酷な言葉を妻に伝える。

『子供達に手紙を書いてほしい。』

生きている妻に、死を前提にした手紙だ。残酷すぎる言葉だ

号泣する私をベッドから『ごめんね、ごめんね』と言う言葉だけが何度も聞こえた。

平成26年4月12日午前7時28分、家族、義兄家族、(両親はどちらも他界)に看取られ自宅で最期を迎えました。

なぜもっと早く病院に連れていかなかったのか!
なぜもっと腰に違和感を感じたときに主治医に話さなかったのか!
なぜ緊急で病院に行った時、担当医師に詳しい検査を依頼しなかったのか!

後悔の念しか今は無い。
この体験記で少しでも骨転移の現状を伝えれば妻の存在意義がより高まりますし、一人でも同じ経験をされないことを望みます。

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