体験談

体験談 No.2 大阪府 真中様

 私は会社勤めを経験した後、経営コンサルタントを営んでいます。その傍ら、劇作家、演出家として演劇やミュージカルを手がけてきました。

 珍しく大阪に雪が降り、それが路面に積もった2月の始めの頃でした。講演の仕事が終わり、懇親会会場に向かう道すがら、足元がおぼつかない歩き方なので、周りの人が心配していました。すべりやすい雪道を気にして歩いていた訳では無く、数日前から足腰がしびれていて力が入らずに歩きにくくなっていたからです。杖を突いていないと歩けない状態でした。その状態ですぐに治療に行かなかったのは、一週間後に、自分が主宰する劇団の本公演が有り、とても忙しかったからです。しかし、本公演のその日はほとんど立てない状態で、一日現場で座っていました。 2014年2月15日のことでした。公演終了後、下半身が動かないので、何とか家まで送り届けてもらうという状態でした。

 整体師に往診してもらい自宅で治療を受け、「少し時間が経過したらよくなるのじゃないか」と気楽に考えていました。

 しかし、3月10日、突然、39度の発熱があり、家内が驚いて救急車を呼び、救急病院に受け入れてもらいました。担当は内科の先生でしたが、その診たてによると、膀胱に尿がたまっているので膀胱機能障害ではないか、と言う事です。しかし、膀胱機能障害から来るものにしては白血球の値が低すぎるということでした。「きっと他に原因があるだろう」つまり「がんの可能性がある」ということでした。先生が、徹底的に検査して絶対に原因を見つけますと言ってくれたので安心してお任せしたのを覚えています。

 そしてPET-CTの撮影の手続きをしてくれました。そこで前立腺がんで、骨転移もあると確定したのです。ただ、救急で運ばれたときに、下半身が動かないことは伝えてありましたので、まずレントゲンを撮影していましたし、骨に影が見えていました。そのため、精密検査をする前の段階で既に家内だけが呼ばれて、「正確にはまだ分からないが、おそらくがんだろう」とは伝えられていました。

 運ばれた救急病院には泌尿器科があり、前立腺がんの治療はできるのですが、整形外科の方は治療するために設備がないということで、担当の先生が一生懸命に転院先を探して下さいました。

 転院先は幸い自宅の近所でした。そこであれば泌尿器科で前立腺がんの治療もでき、整形外科で外科的手術できるし放射線を照射する設備もあるということでした。この間も、ずっと寝たきりです。

 3月19日に転院し、詳細に診てもらいましたが、前立腺がんの治療はできるけれど、骨転移については放射線を照射することも手術することも難しいといわれました。骨転移によって痛みを覚え、麻痺が発生してから48時間以上経過すると回復が難しいといわれています。その48時間を超えていましたし、症状が出始めてから1カ月近く経過していましたので、骨転移に対する治療は難しい、できないと言われました。私は先生に「動きたい」と伝えたところ、「では、今、足を上げてみて下さい」と言われました。しかし足は全然上がりません。「足が上がらないということは歩くのは無理です」と言われました。

4月初に前立腺生検を行いました。そして内分泌療法が始まりましたが、同時に受診していた整形外科で「もう足は動かない」といわれたときはショックでした。ただ、一方で冷静な自分もいました。私はスポーツなど身体を動かすことも好きでしたが、このときは劇作家、演出家をすることがメインになっていましたから、「頭と口さえしっかりしているならば何とかいける」と。ショックはショックでしたが、頭をがーんと殴られるようなそこまでのショックではなかったように記憶しています。家内も、生きてさえしてくれたら、と思ってくれていたようです。

 私自身は常々、最初に「こうなりたい」という目標を立てて、そこに向かって取り組んで行こうと決めています。それは決して現状を肯定して、そこから今後を考えるものではありません。その時点ではあり得ない夢でもいいんです。経営コンサルティングでもそう伝えてきましたし、ミュージカルでもそういう考え方を表現してきました。そこで本当に自分がどうなりたいか、と考えたとき、「ミュージカルがしたい」「自由にスタスタ歩きたい」と思ったのです。

そんなとき重要な出会いがありました。病院に友達が見舞いに来てくれて、一冊の本をプレゼントしてくれました。それが今話題になっている「ビリギャル」(「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」 坪田信貴著、KADOKAWA/アスキー・メディアワークス)でした。

 友人曰く、「絶対に読まないような本を持ってきました」ということでした。確かに普段は手に取らないような本でしたが、読みやすいこともあってあっという間に読みました。その本の中でとても印象的な一言があったのです。それが、「レッテルは自分で貼る」というものでした。

 医師から言われた、「あなたは48時間以上経過している」「もう足は一生動かない」というものは、過去の医学上の経験の蓄積から私の今後を予測して言ったものであり、それは「他人様から貼ってもらったレッテル」です。しかし、自分が自分のレッテルを貼ることを前提に自分で考えてみると、私は「自由にスタスタ歩きたい」「ミュージカルをしたい」という希望がありました。そこでそれを自分のレッテルとして貼ったのです。しかも、過去形で、完成形で貼りました。「自由にスタスタ歩きました」「ミュージカルをしました」と。その後、毎日、日記に「自由にスタスタ歩きました」「病気が治りました」と書き続けてきたのです。余命が2、3年かもしれません、といわれていましたので、「85歳以上生きました」と書き続けました。今でも書き続けています。これらのきっかけが「ビリギャル」だったんです。

 また、この頃、私が56歳男性で、これからもう歩けない、寝たきり、ということで、周りがデリケートな対応をしていることに気がつきました。後から看護師に聞いたのですが、カンファレンスで私の心のケアも必要ということで、そうした対応をして下さっていたのです。

 ただこの時点では、「生きているだけでまるもうけ」と切り替えが出来ていました。よく「闘病生活」といいますが、私はこれからの毎日をエッセイなどにしたいと思っていましたから、この生活に名前を付けたいと思って、「遊病生活」と名付けました。がんと戦うのではなく、がんは自分の一部だから仲良くしていこうと。親や家内などもいろいろとサポートすると言ってくれましたし、寝たきりではありますが、「神様から与えられたバカンスだ」と思うようにしました。そんな状態でしたので、看護師の皆さんもよく病室に来てくれましたし、いろいろな会話を楽しく交わしました。後から調べて分かったのは、これは「ナラティブベーストメディシン」(患者の思いを傾聴し、対話を通じて患者を理解し、治療に応用していくこと)の一環でしたが。

 リハビリの先生も良くしてくれました。あるとき、リハビリの先生が外に連れ出してくれました。よく考えれば、2月から4月のその日まで、転院で移動した以外は外に一歩も出ていないことに気がついたのです。太陽の光がシャワーのように降りかかり風がほほをくすぐって、とても気持ちが良かったのを鮮明に覚えています。リハビリの先生は、「あそこに桜の花が咲いていますよ」「5月にはハナミズキが咲きますよ」と教えてくれました6月にはアジサイ、夏にはヒマワリ、と次々に咲く花を見たいと思ったら命の連鎖を感じました。その時初めて明確に「生きたい」と思いました。来年も桜の花を見たいと思ったんです。

 その後、理学療法士の方と作業療法士の方の一日二回のリハビリを受け始めました。車いすでの移動方法、パジャマや靴下の履き方などを教えていただいていました。しかし、私は「ちょっと、これはちがう」「僕は歩きたいんだ」と思ったんです。そこで動く、歩く、立つ、ということに向けてリハビリを進めるようにしてもらおうと思っていました。

 そんなある日、リハビリの先生が私の足を触って、「あれ?ひょっとしたら立てるかもしれません」と言ったのです。「立ってみますか?」と言われたので、「立ってみます!」と立ち上がろうとしました。そしたら助けをもらいながらも立てたんです。その瞬間はむちゃくちゃ嬉しかったです。

 この頃、歩くことと平行して、自己導尿を薦められました。これを導入してしばらくすると、自分で尿を出せる感覚が戻ってきたんです。

 その後少しずつ体調も回復し、車いすでの外出許可も出ました。主治医からはまだしばらくは入院していてもよいといわれていましたが、退院するためには車いすを乗り入れるために自宅を改築する等何らかの対策が必要でした。ケアマネージャー、ソーシャルワーカー、看護師を交えてカンファレンスをしていただいて、改築などの段取りを打ち合わせしました。私自身は正直、しばらくしたら歩けるようになるから、改築は必要ないなとは思っていました。

 治療を受けていた病院は急性期病院ではありますが退院後8月まではリハビリに通ってもよいと言って下さっていました。

 退院前のある時見舞いに来てくれた友人が、骨転移の専門医を紹介してくれました。セカンドオピニオンを受けると言う形で、主治医からも快く診療状況報告書をもらい、6月に退院した後の7月に受診をしました。その先生からは、身体機能が麻痺し始めた状態から48時間が過ぎて、一か月も経っていたのに、そこからの治療とリハビリでここまで回復してきていることは奇跡だと言って頂きました。治療のことについていろいろと丁寧に教えていただき、「今やっていることは間違っていないんだな」と確信が持てました。中でもよく覚えているのは、「月単位でよくなっていきますよ」ということでした。私自身、つい早く回復することを想像し、焦りを感じることもありましたが、「あぁ、日々よくなっていく実感がなくても、焦らなくても月単位でよくなるのだな」と思うことができましたので。

 病状については、内分泌療法が効かなくなり、徐々にPSA値が上がってきましたので、11月から抗がん剤治療を始めました。しかし、1クール受けたところで副作用が発生し、2クール目も副作用が発生したため、抗がん剤治療は中止して、ステロイド治療だけになっています。この頃には歩行器を使うものの、歩くことができるようになり、年が明けた1月には一人で歩行器を使って外出することもできました。

 現在でもリハビリは週に二回通っています。今では一本の杖だけでも、かなりスムーズに歩けるようになりました。

 ここまで回復することが出来て、私の治療に関わっていただいた病院スタッフのみなさんや励ましてくれた友人、そして献身的に看病をしてくれた家族にとても感謝しています。

 これからも少しずつではありますがもっと自由に歩けるようにリハビリに励んで行きたいと思っています。そして今後は体験者として、身体機能が麻痺し始めたら48時間以内に受診する事の大切さと、合わせてもし48時間過ぎていても、諦めずに治療とリハビリに取り組めば回復する可能性がある事を伝えて行きたいと思っています。

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